メディチ家の華麗な功績
メディチ家は“イタリア・ルネサンス”を推進する力そのものでした。
イタリア・フィレンツェに花咲いた“ルネサンス”は、人間らしい生き方を追求するヒューマニズム(人間主義)に焦点が当てられました。
ルネサンス以前の中世ヨーロッパは、封建社会とカトリック教会の戒律によって、人々は束縛されてきましたが、この時代が崩壊すると、人々は人間性の解放を求めるようになりました。
それが、14世紀から16世紀にイタリア・フィレンツェで起こった“ルネサンス”(Renaissance-古代文化の復興・再生)です。
“ルネサンス”は、イタリア・フィレンツェから発生し、その後西ヨーロッパ社会全体へ波及していきました。
封建社会の崩壊によって金融業などで巨万の富を築いたメディチ家は、教皇、トスカーナ大公、フランス王妃などを次々と輩出し、ヨーロッパの聖俗の両世界に君臨しました。
1434年にフィレンツェの実権を握った「コジモ・デ・メディチ」(1389〜1464年、左写真)は、ルネサンス初期の重要なパトロンであり、フィリッポ・リッピ、ドナテッロなどらを庇護すると共に、プラトン・アカデミーを築きプラトンの著作の翻訳を行わせました。
メディチ・リッカルディ宮殿、サン・ロレンツォ教会など、現在もフィレンツェに残る著名な建造物を残しています。
その孫の「ロレンツォ」(1449〜1492年)は、政治思想家のマキャヴェッリによって、「あらゆる君主の中で、文学と美術の最大の庇護者」と称され、自身でも優れた詩を残しています。
ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどが彼の庇護の元で活躍し、イタリア・ルネサンス最後の巨人と言われたミケランジェロは、14歳の頃、ロレンツォに才能を見い出され、彼の学校に通い多くの芸術家と意見を交わし影響を受け、その並外れた才能を開花させました。
メディチ家は、芸術の擁護者として、ルネサンス躍進の大きな力となったのです。
メディチ家最後のトスカーナ大公「ジャン・ガストーネ」の死により、全財産を相続したその姉「アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ」は、「メディチ家すべての財産は、この街フィレンツェに永遠に保存されなければならない」と遺言し、膨大な美術品コレクションの散逸を防ぎました。
イタリア共和国の所有となった現在でも、遺言は守られフィレンツェに保存されています。
メディチ家の居館であったヴェッキオ宮殿に隣接するウフィツィ美術館では、ボッティチェリの「プリマヴェーラ(春)」「ヴィーナスの誕生」、ダビンチの「受胎告知」、ミケランジェロの「聖家族」、ラファエロの「ひわの聖母」など、イタリア・ルネサンスの初期から盛期までの卓越した膨大なコレクションが展示され、世界中のだれもが鑑賞することができます。
武力ではなく、文化の力で欧州の覇者となったが故に、ルネサンスが生んだ大芸術家達の擁護者として、メディチ家の偉業は21世紀の今なお讃えられています。
現在のメディチ家について
さて、現在のメディチ家ですが、日本では前述の「アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ」を最後に、メディチ家の系図が途絶えたことが通説として語られていますが、
右にご紹介する家系図の通り、当時トスカーナ公国を支配していた系図が途絶えたのであり、コジモ、ロレンツォを祖先としたメディチ家の子孫は、現代も弊社名誉理事 プリンセス・コスタンツァ・デ・メディチを含めて6名がメディチ家の継承者として存在しています。
このことは、ヨーロッパ貴族社会では公然の事実として、また、近年メディチ研究者によるDNA調査結果でも正式に認められています。
日本でも、2001年のBSジャパン特別企画番組にて、男系継承者第1位であるオッタビアーノ氏がメディチ家末裔として紹介されております。
★「フィレンツェ ルネッサンスの光芒」
(2001年放映、BS JAPAN、制作オルタスジャパン社、※他局でも再放送)
プリンセス・コスタンツァ・デ・メディチ氏の実兄であるオッタビアーノ氏(Ottaviano de' Medici)が、自身が正式なメディチ家の末裔であることを示す著書を発表し、この著書を題材とした番組が日本で制作され放映されました。